2023.03.18
ねこの雑学
歴史の中のねこ~日本史編~

歴史の中のねこ ~日本史編~

くりくりした大きな目とぷにぷにの肉球、気まぐれで好奇心旺盛なところも魅力のねこ。

今も数多くの人々の心を魅了しているねこたちは、歴史の中でもたくさんの偉人たちを虜にしてきました。

今回は、日本史の中のねこのほか、ねこを愛してやまなかった歴史上の人物、そしてねこ好きなら知る人ぞ知るオスの三毛猫たけしの物語を紹介します。

 

目次

1.ねこはいつ日本にやってきた
2.宇多天皇が愛した黒猫
3.天才浮世絵師、歌川国芳とねこ
4.南極観測船宗谷の守り神だった三毛猫たけしの物語
まとめ

 

1.ねこはいつ日本にやってきた

人が最初にねこと暮らしはじめたのは、1万年前のメソポタミアだったとされています。

では、日本にねこがやってきたのはいつ頃だったのでしょうか?

日本に最初の猫がやってきたのは、奈良時代から平安時代の初期のころ。

ざっと1200〜1300年前のことです。

仏教とともに中国から船で仏典を運ぶ際に、ネズミの害から守るために連れてきたのではないかと考えられていたのです。

ところが、2007年に兵庫県姫路市の見野古墳からねこの足跡のついた須恵器(古墳時代の中ごろから平安時代にかけて作られた土器の一種)が見つかりました。

日本におけるねこの歴史は、それまで考えられていたよりもずいぶん古く、少なくとも1400年前の飛鳥時代後期には日本にねこがいたことがわかったのです。

さらに発見はつづきます。

翌2008年には、長崎県壱岐島のカラカミ遺跡で、魚やヘビ、イノシシ、シカなどの骨とともに十数点のねこの骨が見つかりました。

調査の結果、これらの骨は2100年前の弥生時代のものであることが判明するという事件が起こります。

なにしろ、2100年前といえば、中国にねこが伝わった時期とほぼ同じか、あるいはそれよりも古いのです。

それまではねこは中国を経由して日本にやってきたと考えられていたのが、もしかしたら違うルートで中国以外から伝わったのかもしれないのです。

そんなわけで、ねこがどこからどんなふうにして日本にやってきたのか?についてはまだまだ明らかになりそうにはありません。

もしかしたら、永久に解明されないままかもしれませんけどね。

 

2.宇多天皇が愛した黒猫

記録に残っている飼い猫でもっとも古いのは平安時代、第59代宇多天皇が887〜897年の在位期間中に書いた「寛平御記(宇多天皇御記とも)」に登場する黒猫です。

この「寛平御記」は天皇の日記として、また実在した人物による飼い猫の記録としても最古のものとして有名ですが、ねこに対する溺愛ぶりでもしばしば話題になっています。

ねこは太宰大弐の源精(みなもとのくわし)が光孝天皇(宇多天皇の父)に献上したものを、まだ即位前の宇多天皇に下賜されたとのことです。

宇多天皇は父親である光孝天皇から譲り受けたねこを可愛がっていたようで、「寛平御記」にもねこに関する記述を多く書き残しています。

ただ、そのねこ愛が少々あふれ気味にしか思えないのです。

たとえば、宇多天皇は愛猫の毛色について、「よそのねこはみんな浅黒い色なのに、うちのねこは墨のような漆黒で美しい」と記しています。

また、伏せている姿を宝玉に、歩く様子を雲の上の龍にたとえるなど、文化人らしい表現も見られる一方「ほかのねこよりも素早くネズミを捕らえることができる」と褒めたたえたりもしています。

個人的な日記とはいえ、天皇が書いたものですから、後世に残るのは確実。

その日記に「閑だからうちのねこのこと紹介しちゃうもんね」的ノリでことこまかに書き記しているのですから、ねこバカのそしりは免れないでしょう。

そのうえ、「このねこを可愛がるのは、ねこが優れているからではなくて、先帝から賜わったものだからだ」などと書いてもいるのです。

言い訳じみていますよね。

 

3.天才浮世絵師、歌川国芳とねこ

歌川国芳といえば「江戸に国芳あり」とまでたたえられた、江戸時代末期を代表する天才浮世絵師でした。

画想の豊かさや斬新で奇想天外なアイディア、比類ないデッサン力の持ち主であったと評されています。

そんな国芳はねこが登場する作品を多数残しているほか、無類のねこ好きとしても数々のエピソードを残しています。

国芳は、常に数匹から多いときは数十匹のねこを飼っていたそうです。作画の際にはねこを懐に入れていたともいわれています。

もしかすると「懐のねこがじっとしておらんから描けぬ」などと締め切りを守れなかったときの言い訳にねこを使っていたのかもしれませんね。

ねこにかまけて仕事をしない国芳に業を煮やした門弟たちが「先生、ねこを描かれたらいかがです?」と機転を利かせて進言したのがきっかけだった、なんて想像するのも楽しいかも。

ともあれ国芳はねこの登場する作品をいくつも生み出します。

東海道五十三次の宿場町名を語呂合わせにして、猫の仕草として描いた「其のまま地口 猫飼好五十三疋(そのまま・ぢぐち・みょうかいこう・ごじうさんひき)」を、始め「金魚づくし 百物語」「猫のけいこ」「流行 猫じゃらし」など。国芳のねこの絵はネズミ除けのお守りにもなるとさえいわれるほどで、江戸の町にねこブームを巻き起こしたのでした。

なお、門弟のひとりである歌川芳宗によると、国芳のねこは亡くなると回向院に葬られたといいます。

国芳の住まいにはねこの仏壇があり、戒名の書かれた位牌が祀られていたのだそうです。

ねこを見つめ、描きつづけた国芳のねこ好きぶりが伝わってきます。

 

4.南極観測船宗谷の守り神だった三毛猫たけしの物語

1956年11月8日、53名の観測隊員、22頭の樺太犬、2羽のカナリアとともに1匹のねこが東京・晴海埠頭を出港しました。

船の名前は宗谷。日本初の南極観測船です。

生後2ヶ月の子ねこはめずらしいオスの三毛猫で、航海の無事を願う動物愛護団体から贈られたものでした。

オスの三毛猫は生まれる確率がわずか3万分の1ほどと低く、希少さから縁起が良いとされ、宗谷のお守り代わりにと考えられたようです。

第1次南極観測隊の永田武隊長にちなんで「たけし」と名付けられたねこは、純粋にペットとして隊員たちに可愛がられます。

翌1957年1月29日、観測隊は南極大陸への公式上陸を果たし、昭和基地を建設しました。2月15日に宗谷は日本に向けて出発しましたが、たけしは越冬隊員たちの強い希望により、南極に残ることになりました。

もともとたけしはお守り代わりに宗谷に乗り込んだこともあって、昭和基地でも研究や荷物運びなどにかかわることはなく、純粋にペットとして可愛がられたといいます。

縄張りとしていた昭和基地周辺のパトロールを欠かさず、寒い日も排泄は野外で行なっていたそうです。

さて、昭和基地の癒やし担当としてのんびりと南極暮らしを楽しんでいたたけしでしたが、1歳の誕生日を少しすぎた1957年10月、大きな事故にあいます。

暖をとろうとしたのか、大型通信機器の中に潜り込んだところ、高圧線に触れてしまったのです。

大きな音に気づいて駆けつけた隊員に助け出されたものの、一時は意識不明の状態におちいりました。

隊員たちの懸命の看護のおかげで、たけしはわずか数日で回復します。

さすがはオスの三毛だけのことはあると思ってしまいますが、隊員たちの喜びようを想像すると胸が熱くなりますね。

そんな南極暮らしもいよいよ大詰め。第2次越冬隊と交替する時期が迫っていました。

ところが、悪天候に見舞われた宗谷は接岸できず、昭和基地の隊員たちは小型飛行機で宗谷に向かうことになりました。

その後、天候が回復することはなく、上陸のチャンスを待っていた第2次越冬隊ともども、宗谷は南極を離れます。

あとには、第2次越冬隊のためにと留め置かれた犬たちが残されました。

そして、たけしとも仲の良かったタロとジロの2頭もその中にいたのでした。

1958年4月28日、宗谷は日の出桟橋に接岸し、日本への帰国を果たします。

帰国後、たけしは一番懐いていた通信隊員の作間さんに引き取られました。

けれども、1週間ほど経ったある日、たけしは作間さんの自宅から突如姿を消してしまったのでした。

もしかしたら、縄張りだった南極に帰りたかったのかもしれません。

作間さんもそう考えました。そして、たけしの魂は昭和基地に行っているはず、自分も死んだら魂だけになって昭和基地に行く。

再会したら「ずっと探して待っていたんだよって言ってやります」と語ったそうです。

 

まとめ

今のところ、ねこがいつから日本にいたのかは現在でははっきりしていません。

もっとも古い痕跡は2100年前の弥生時代で、カラカミ遺跡で発見されたねこの骨は、その状態から人に飼われていたことがわかっています。

現存している最古の飼いねこの記録は平安時代、宇多天皇が書いた「寛平御記」で、やんごとなき方々のあいだで日本初のねこブームが起きたともいわれています。

江戸時代になると穀物を食い荒らすネズミを駆除することから大切にされ、浮世絵などに描かれるなどして人々の暮らしに溶け込んでいきました。

そして、庶民のあいだでもねこを飼う人が増え、江戸時代の終わりには大きなねこブームが起こっています。

タロとジロの生還劇の陰に隠れて目立たないながら、宗谷と昭和基地で南極観測隊の面々を癒やし、愛されたオスの三毛猫たけしも日本史の1ページにその名を残しています。

いつの時代も、ねこは人々の心を魅了し、寄り添いつづけているのですね。

 

 

 

 

 

   
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